第8回の放送では、兵糧米の強制徴収を契機に「三河の一向一揆」と呼ばれる大騒動が勃発しました。
一向一揆といいますと、一向宗の信仰によって大名など世俗の権力と対立した勢力というイメージがあります。しかし最近の研究では、こうしたイメージは後に形成されたもので、当時は世俗と信仰生活は分けて考えられていたと指摘されています。
三河の場合、一揆に至る経緯を明らかにする同時代の史料は残っておらず、後世の史料の記述もまちまちではっきりしません。ただし大坂本願寺からの宗教的な命令ではなく、家康が寺の「不入の権」を犯したことが原因と考えられています(#8 一向宗寺院とのトラブル発生「不入の権を盾に、わしらのいうことを聞かず……」 | ステラnet (steranet.jp))。
例えば『松平記』という江戸時代前期の記録によれば、家康の家臣菅沼藤十郎が、上宮寺にあった籾米を兵糧米として奪ったといいます。この強制徴収に寺側は、開山上人以来長く不入の地であると怒り、籾米を取り返しました。藤十郎は酒井政家に訴え、政家が調査の使者を遣わしますが、この使者は殺害されてしまいます。
家康は事件の処断を命じ、犯人を捕らえさせました。この時、通常ならば寺に犯人の引き渡しを求めるべきところ、寺内に踏み込んだようです。「不入の権」の侵害です。かくして騒動が勃発したと『松平記』は語ります。
しかも事態は単純ではありません。家康の家臣たちの中にも一向宗の門徒が多くいたのです。門徒の家臣たちの中には寺側に味方するものが出て、敵味方に分かれて争うことになります。
家康の生涯の中でも重大なピンチの一つです。
相次ぐ戦争に軍資金問題は大きかったようです。家臣や地域の人々は戦争の負担にあえいでいました。その不満が引き金になったのでしょう。一揆の期間中も、家康は家臣たちの借金を取り消す命令を出しています。
さらに家康の追い落としをはかっている勢力がいました。ドラマ中では大草松平昌久と吉良義昭がはかりごとを巡らせていました。ほかにも荒川義広・桜井松平家次・酒井忠尚などの名前が挙がっていました。
この人たちは本願寺門徒ではなく、一揆の起こる少し前から家康と対立状況にあった勢力です。
吉良義昭は、三河国吉良荘(現在の愛知県西尾市)を名字の由来とし、将軍足利家の一門筆頭という名門の人物です。ドラマでは、謎の歩き巫女・千代が「本来、三河の国の主となるべきお方」とそそのかしていましたね。家康の祖父・清康、父・広忠は、吉良持清、持広から名前の一字をもらっていました。かつての主筋といえます。
実は今川家も13世紀後半に吉良から別れた庶流です。ただし義昭の時期には、逆に吉良が今川の影響下に置かれています。桶狭間の合戦後には、三河の支配権をめぐって家康と争い、一度は家康に降伏していましたが(第3回放送「三河平定戦」で登場していましたね)、再び兵をあげたようです。荒川義広はこの吉良の一族です。
昌久、桜井松平家次、酒井忠尚は松平の一族、重臣でした。こうした人々が家康に対抗しています。今川とも通じようとしていたと推測されますが、家康にとって幸運なことに、今川氏真はこの時、遠江国内の争いで手いっぱいでした。
あちらもこちらも大変な状況です。四面楚歌の家康はどうするのでしょうか。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。