永禄6(1563)年秋ごろ、家康は、ついに名を「元康」から「家康」と改めました。「元」の字は、元服の折に今川義元にもらった一字です(#2 「わが子も同様」松平次郎三郎元信の登場 )。それを捨てたのです。

ドラマで酒井忠次が言っていた通り、新たな名の「家」は八幡(はちまん)太郎(たろう)源義家(みなもとのよしいえ)にあやかったという説があります。義家は11世紀に活躍した源氏の武将で、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で活躍した源頼朝のひいひいおじいさんになります。

同時期に花押(かおう)も変更しました。花押とは名前の代わりに書くサインのことです。個人的なものですが、やはり同じ大名の家中では、似たデザインが多く用いられました。家康の花押も今川風のデザインでしたが、それを大きく変えています。

いずれもはっきりと今川からの決別を示した、家康の決意の顕れでしょう。

三河国内での戦いも続いています。しかし長引く戦に、国や家臣たちにかかる負担は大きくなっていきます。そのような中、第7回の放送で、家康は一向宗の寺院の存在を思い出し、「不入(ふにゅう)の権」というタブーを犯してしまったようです。これはどういうことでしょうか。

この時期、大坂本願寺を総本山とする一向宗本願寺教団の勢力が、広く地域社会に根づいていました。

西三河でも流通上重要な矢作(やはぎ)(がわ)沿いに多くの寺・道場があり、「(もん)()繁昌(はんじょう)候て国中過半」と言われるほど栄えていました(『信長記』)。これらの寺院はその土地の商工業・流通にも深く関わっています。中でも頂点にいたのが土呂(とろ)御坊(ごぼう)(ほん)(しゅう)()です。

本宗寺は本願寺中興の祖とされる蓮如(れんにょ)(1415~99年)を開基として創建されました。御坊と呼ばれる格の高い寺院です(ただしこの時は本宗寺の証専は、兼任する播磨の本徳寺に居て、三河には不在でした)。

そのほか野寺(ほん)(しょう)()(現在の愛知県安城市に所在)・佐々木(じょう)(ぐう)()・針崎(しょう)(まん)()(いずれも現在の愛知県岡崎市に所在)が、三河三か寺と呼ばれる中心的な存在でした。

永禄5(1562)年、蓮如のひ孫・(くう)(せい)が本證寺の住職としてやってきます。宗主の親族が住職となったことにより、本證寺が三か寺の中でいちばん格上となりました。

第7回で、家康たちがこの本證寺のにぎわいの中に潜入する場面がありました。城郭の要素も持つ広大な寺で、現在でも土塁や二重の堀など、当時の痕跡が残っています。外堀の内側には寺内町が栄えていました。

さて家康とこのような本願寺派の寺院との間でトラブルが発生しました。門徒の百姓たちが、「家康の家臣が寺内の籾米をすべて持っていった」と空誓に訴えていましたね。寺院が主張する「不入の権」とは何でしょうか。

今川義元が制定した『今川仮名(いまがわかな)目録(もくろく)追加(ついか)』という法があります。その第20条には「不入の権」とは臨時に賦課(ふか)される税の免除、また犯罪人捜査に今川の家臣が立ち入らないことであり、代々の当主による認定の書類を持っているところに認められる、と定められています。今川の認定下での一種の治外法権です。

「不入」の考え方は古くからあり、特権の範囲もいろいろですが、家康はこの今川の法に基づいて認識していたと思われます。

また、ドラマで鳥居忠吉が、ご先代様・広忠が認めたのだから、と止めていました。しかし家康は納得しませんでした。当時、当主の代替わりがありますと、新しい当主の名で改めて従来通りの権利を認める、という書類が出される慣例でした。自分はその書類はまだ出していない、認めていない、と言いたいようです(実際どうだったかは不明です)。とはいえ……ですね。 

名前もサインも改めて心機一転の家康でしたが、足元では不満がたまっていました。今後どうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。