ついに瀬名と子どもたちが家康のもとに帰ってきました。永禄5(1562)年2月ごろのことです。家康は、本多正信の計略に従い、上ノ郷城(愛知県蒲郡市)を攻め、城主・鵜殿長照と瀬名たちと人質交換しようとします。敗北した長照は自害してしまいますが、その子・氏長、氏次を捕虜にし、今川氏真との交渉に成功したのです。
なぜ長照をターゲットとしたのでしょうか。長照と家康や氏真との縁を追ってみたいと思います。
鵜殿氏はもともと伊勢国の出身でしたが、この時期は松平氏と同じく三河の国衆として、現在の愛知県蒲郡市付近に勢力を持っていました。長照は、家康よりひと世代年長で、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いの時には、今川の将として最前線の大高城(愛知県名古屋市)にいました。
この城は永禄2(1559)年に今川の城となりますが、すぐ近くに織田軍の砦が築かれたため、味方と切り離されてしまいました。今川義元の出陣は、この大高城の救援のためだったとも考えられています。そして織田軍の包囲を破り、孤立した城に兵糧を運び込んだのが家康です。つまり家康は長照の命の恩人です。
家康はさらに織田軍の砦を攻め落とし、長照と交替して大高城に入りました。ここで義元敗死の報を聞くことになります。第1回放送「どうする桶狭間」は、この大高城での場面から始まっていましたね。
長照も本拠地の上ノ郷城に戻り、引き続き今川方として戦っていました。何度か家康軍とも対峙したようです。家康との戦いですばらしい働きをした、と氏真から褒められた文書が残されています。
では氏真はなぜ人質交換に応じてでも、鵜殿父子を守ろうとしたのでしょうか。
ドラマで正信は「最も忠義を尽くす一門衆」を見捨てたら、今川に味方するものはいなくなる、と説明していました。忠実な家臣という理由が一つ考えられます。ほかの家臣たちへの配慮もありましょう。
また鵜殿氏は今川の一門衆でもあります。江戸時代後半に編纂された『寛政重修諸家譜』という系図では、長照の母は今川義元の妹とされています。そうだとすると氏真と長照はいとこ同士になります(ただしこの血縁関係は江戸時代に創作されたとの説もあります)。氏真が長照たちを見捨てられなかったのも、よくわかりますね。
子どもたち氏長・氏次の名には「氏」が冠されています。これは氏真の「氏」、今川家代々の当主が名乗った通字です。その一字を与えられていることからは、いとこではなくとも氏真とかなり近しい関係だったことがうかがわれます。見捨てられない存在だったのでしょう。氏長・氏次の兄弟は、その後も今川氏真に従い、のちに家康の家臣になりました。
このように長照にとって氏真は親しい主でした。一方で家康に対して大高城の恩義、さらに苦楽を共にした思い出があったことでしょう。
もう一つ後日談があります。ドラマでは、瀬名の父・関口氏純と母・巴は、氏真のもとに残りました。その後どうなったのか、心配です。
『松平記』という後世の記録には、氏真が激怒して御舅・関口刑部に切腹を申しつけた、と書かれています。この記事から、従来氏純はこの時に切腹したと考えられていました。
ところが2021年、上ノ郷城落城の翌年永禄6(1563)年の日付を持つ氏純の文書が、静岡市の臨済寺で発見されたとの報道がありました。ということは、氏純はこの後にもしばらく今川家臣として活動していたようです。
駿府にとどめ置かれていた家族を迎えた家康、次はどうするのでしょう。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。