第5回の放送では、駿府に居る瀬名、竹千代・亀姫の奪還作戦が始まりました。その作戦会議の中で、本多正信が「信用厚きご家臣に、先の殿も、先の先の殿も裏切られた」と、気になる発言をしましたね。石川数正も、家康の祖父君は家臣に裏切られ、それが命取りになった、父君もまた同じように……、と語っていました。
家康に仕える三河武士というと「忠義一徹」というイメージがあります。それにもかかわらず、家臣に裏切られたとはどうしたことでしょうか。
少し時間をさかのぼってみましょう。
そもそも家康の祖先、松平氏の出自はよくわかっていません。三河国松平郷(現在の愛知県豊田市)を名字の由来とした一族で、15世紀前半には松平郷から西三河の各所に進出していきます。家康のころには、十八松平と総称されるような多数の家に分かれていて、一族内でも勢力を争っていたようです。
松平氏の中でも家康の祖先の流れは安城城を本拠としていました。祖父・清康は若くして家督を継ぎますが、家中の紛糾から安城城を出て山中城、のちに岡崎城を本拠としました。
この時、清康に岡崎城を明けわたし、大草(現在の愛知県幸田町)に移ったのが松平信貞、その子息が大草松平昌久になります。第2回放送「兎と狼」で、尾張から退却してくる家康たちに攻撃を仕掛けた人物ですね。昌久の行動の背景にはこうした因縁があったのです。
清康の事績はよくわかりませんが、後世、松平家の勢力を急速に拡大した優れた武将として語られています。家康(元康)は生前に顔を合わせたことはありませんが、名前の「康」の字は清康にあやかったと考えられます。祖父をお手本としようとしたのでしょう。
その清康は天文4(1535)年に家臣の阿部弥七郎に殺害されました。これは弥七郎の父・大蔵に謀反の嫌疑がかけられたことが発端とされます。事件は尾張国守山(現在の愛知県名古屋市)に在陣していた時に起き、松平軍は総崩れになりました。「守山崩れ」と呼ばれる事件です。
あとにはまだ幼い息子・広忠が残されました。岡崎城には安城城主・松平信定が入り、広忠は大蔵に伴われて、伊勢国に移りました。これは大蔵が息子の弥七郎の主殺しの罪を償おうとした、あるいは追及を逃れようとしたためと推測されています。広忠が今川義元の支援を得て、ようやく岡崎に戻ることができたのは数年後でした。
そして広忠は、天文18(1549)年3月に岡崎城で亡くなります。死因はよくわかりませんが、家臣に刺されたという説もあります。
父・広忠の死去により家康が当主となります。しかし家康はこの時、尾張に居ました。家臣たちは今川家の助けを得て、織田方の安城城を攻め落とし、城主の織田信広(信長の兄)を捕虜とします。今川と織田の交渉により信広と家康の身柄交換が行われました。こうして家康は尾張から駿河、今川義元の許に赴くことになったのです。
祖父・父は、このようないきさつで早くに亡くなりました。松平一族も家臣たちも三河の他の勢力も、それぞれに思惑や利害、あるいは信仰があり、決して一枚岩ではありませんでした。今回のドラマの数正たちのセリフは、こうした状況を踏まえたものなのでしょう。
これから家康は一族・家臣たちをどうやってまとめていくのでしょうか。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。