第4回の放送では、徳川家康がついに清須城(現在の愛知県清須市に所在)で織田信長と対面しました。信長に圧倒されつつ、徐々に覚悟が決まっていく、どきどきはらはらのやりとりでしたね。2人の関係は「清須同盟」として知られますが、 実際には2人が会って同盟を結んだわけではなかったようです。
信長の妹のお市とも、人質時代以来久しぶりに再会したようです。子どもの頃の交流の記憶、そしてにわかに進められる縁談、家康はどうするの?、駿府の瀬名や子どもたちは?と見ている私もどきどきしました。
さてドラマの家康たちはお市の案内で、にぎわう清須の町を見物に赴きます。この清須の地は、濃尾平野の南東部、交通の要衝にあります。15 世紀後半に守護斯波氏の本拠となって以後、尾張国の中心地として繁栄しました。信長の生涯を記した太田牛一の『信長記』にも「清洲という所は国中真中にて富貴の地なり」と表現されています。
家康たちが眺めていた当時の清須の光景は、どのようなものだったのでしょうか。
発掘調査によりますと、当時は現在の清洲公園がある対岸、五条川の東岸に堀に囲まれた区画があり、信長の居館と家臣たちの屋敷が並んでいたようです。ドラマで家康が案内されたのは、そうした屋敷の一つでしょうか。武家屋敷街の周辺には城下町があり、街道沿いには神社を中心にいくつかの市場がありました。これらの町には、買い物をする人が行き交い、さぞにぎわっていたことでしょう。
信長がこの清須城を本拠としたのは、第4回で描かれた永禄5(1562) 年からさかのぼること、7年ほど前になります。
幼い家康が尾張に滞在していた天文16(1547)年から18 年ごろには、信長は名児耶城 (現在の愛知県名古屋市に所在)に居ました。織田家はいくつかの流れがあり、信長の家は庶流の一つ弾正忠家と呼ばれる家です。
当時の尾張国にはさまざまな勢力があり、熾烈な争いが行われていました。天文 21(1552)年ごろ、父・織田信秀が亡くなりますと、信長は尾張国外、国内、一族内での勢力争いに奔走します。
そして弘治元(1555)年、本家筋に当たる清須織田家を滅ぼし、清須城に本拠地を移しました。なおこの清須城攻略の過程で、清須の町は一度燃えたようです。
さらに永禄3(1560)年には、西から攻め寄せる今川義元を桶狭間の戦いで破り、翌4年守護家の斯波義銀を追放し、信長は尾張の統一を進めていきました。家康が再会したのは、こうしたまさに信長が意気軒高な時期でした。
家康との和睦によって、東の三河国との関係も安定することになります。ドラマでお市もこの数年、特に桶狭間の合戦以後は信長の許に「人も富も勝手に集まってくる」と、勢力の拡大を語っています。
もう1つ、向こうに小牧山(現在の愛知県小牧市)が見えていました。美濃国との国境、広い濃尾平野の真ん中にある山で、周囲が広く見渡せる好位置にあります。
小牧山城は、石垣や城下町が整備された当時最先端の城郭だったと、近年の発掘調査で明らかになっています。
信長が小牧山城に本拠を移し、いよいよ美濃国を窺うこととなるのは翌年永禄6 (1563)年です。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。