織田軍との戦いの中で、家康が苦境に陥っていますね。ドラマ第3回では、不穏な雰囲気の中、水野()信元のぶもとが織田に降伏するよう勧めに来ていました。信元は、家康の母・だいの方の兄、つまり家康の伯父になります。今川につくか、織田につくか、ついに重大な選択がなされました。

ところで岡崎に入った後も、家康は繰り返し駿府への思いを語っています。家康は幼いころから長く過ごした駿府に愛着があるようです。

どのような土地だったのでしょうか。大名の本拠地というと武士たちが大勢いる無骨なイメージがあります。それだけではなく、駿府には多くの公家や文化人が滞在していました。今回は当時の駿府(現在の静岡県静岡市)を行き交う人々、雰囲気の一端をご紹介したいと思います。

義元の父・(うじ)(ちか)の室は寿(じゅ)(けい)()と呼ばれる女性です。「おんな城主直虎」(2017年)で、浅丘ルリ子さんが演じていた迫力のある寿桂尼をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません(ただし寿桂尼が義元の母であるかどうかは、議論のあるところですが)。

この女性は実は、京都の中流の公家・(なか)()(かど)(のぶ)(たね)()という人の娘でした。その縁によって、寿桂尼の兄・宣秀、甥の宣綱と宣治(宣忠)は長く駿府に滞在しています。さらに宣秀の娘の一人は、今川家の重臣・朝比奈泰能に嫁ぎ、宣綱の室は義元の姉妹(寿桂尼の娘)と、今川家と深いつながりを結びました。

こうした縁はほかにもあります。氏親の姉妹、義元のおばに当たる女性は、内大臣正親町(おおぎまち)三条(さんじょう)(さね)(もち)の妻となりました。この実望一家も長く駿河に滞在していました。正親町三条家は大臣まで昇る名門の家柄ですが、長期の駿河滞在のため、京都では「正親町三条」(京の邸の所在地に由来する家名)ではなく、「駿河三条」とも呼ばれていたほどです。 

15世紀後半の応仁の乱以降、世情が不穏になっていきます。京都の公家たちの中には、中御門家や正親町家のように諸国に赴き、「在国」するケースが増えていました。彼らは生活のため縁を頼ったり、あるいは自らの所領を確保するために、あるいは天皇・将軍等の使者として、さまざまな理由で諸国と京を行き来しました。あまりつてがなかったのか、御百度を踏んで「在国の願」を立てている公家もいます。

駿河には、ほかにも冷泉(れいぜい)為和(ためかず)飛鳥(あすか)()(まさ)(つな)・飛鳥井(まさ)(はる)三条(さんじょう)西実(にしさね)(ずみ)など多数の公家が訪れました。例えば、家康が結婚したとされる弘治2(1556)・3年には、公家の山科(やましな)(とき)(つぐ)が駿府に滞在する養母(寿桂尼の姉)を訪ねて半年ほど滞在していました。言継は、この滞在の様子を日記に書き記しており、駿府の人々との交流が窺われます。

家康が会う機会があったかはわかりませんが、瀬名の父・関口氏純や家康の従兄・ぎゅう松平親乗(まつだいらちかのり)とは、お酒を飲み交わすこともあったようです。

ちなみに尾張でも公家を迎えて蹴鞠会を催したりしています。

これらの公家たちは、さまざまな文化・芸能に秀でていました。特に冷泉家は和歌の家、飛鳥井家は蹴鞠・和歌の家、三条西家は和歌・古典に通じた家でした。彼らの指導を受け、駿河では和歌会や、和歌と漢詩のかん連句れんく)の会、蹴鞠会などが催されていました。こうした会には、会社でのイベントのように参加した今川家中の絆を強める役割もあったことでしょう。

武士だけではなく、公家たち、連歌師たち、禅僧たちなど、京のそうそうたる文化人が駿府に滞在しています。家康の子ども時代、駿府はこうした人々が集まる華やかで文化の香り高い土地でした。家康もそうした駿府の雰囲気の中で成長していたことでしょう。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。