「寅の年寅の日寅の刻」、徳川家康は誕生しました。寅尽くしとはさすが神君です。ドラマ第2回では、一同声を合わせて「がおー」と喜んでいましたね。一方、本当は卯年生まれともこっそり話していました。また織田信長が家康を「白うさぎ」と呼ぶのも印象的でした。うさぎとも関わりがあるのでしょうか。今回はこのあたりを見てみましょう。
従来、家康は天文11(1543)年寅年の12月26日寅日生まれとされています。家康が元和2(1616)年に亡くなった時、何人もの人が75歳と日記に書き記しています。ここから逆算すると天文11年生となります。同時代の人々には、家康は寅年生と認識されていたのでしょう。
さらに江戸時代には、家康は三河鳳来寺の十二神将寅の神の化身で、誕生時には数々の瑞兆が現れたと宣伝されていました。
ところが家康を卯年生まれ、年齢も1歳若いとする同時代史料がいくつか存在します。例えば慶長8(1603)年、家康の将軍就任に際して行われた天曹地府祭の都状です。都状とは天地の神に捧げる願文ですが、ここには家康が「六十一歳癸卯年」と書かれています。慶長8年に61歳としますと、翌年天文12年癸卯年生となってしまうのです。
天にささげる願文に嘘はつけません。家康は実は天文12(1544)年生だったのでは、生まれついての帝王と印象づけるため寅年としたのでは、という説もあります。
陰陽師は慶長20(1615)年(寅年生なら74歳)にも「前将軍七十三卯、但七十四」と記しており、この年齢の食い違いを認識していたようです。
では誕生日はどうでしょうか。当時は誕生日に長寿を祈る祈祷などが催されました。慶長8年12月26日には、将軍家康の正誕生日(月も日も生まれた時と同じ日)として相国寺鹿苑院で祈祷が行われています。家康の誕生日が12月26日であることは、おそらく間違いがないようです。
家康は通説の1年後、天文12年12月26日生まれだったのでしょうか。
他の可能性はどうでしょうか。気になるのは、現在発見されている家康の卯年生を示す史料がいずれも陰陽道のものであることです。陰陽道の祭祀や占いのためには、生年は重要です。
ところで陰陽道では、節月といいまして基本的に二十四節気を基準に月を区切ります。数え年では新年で一つ年を取るわけですが、正月1日ではなく、立春正月節からになるのです。これは現代でも数え年の区切りを正月1日とする場合と、立春とする場合があるのではないでしょうか。また現在は立春といえば2月4日ですが、旧暦では正月1日より前であったり後であったり、年によって変動があります。
問題の天文11年には12月23日に立春がありました。立春を区切りとする数え方では、家康の誕生日12月26日は、すでに年がかわった卯年となり、年齢も1歳若返ることとなります。
同じように立春のタイミングによって年齢が複雑となった人物に、室町幕府8代将軍足利義政がいます。銀閣を建てたことでも有名な将軍ですね。この人は、永享8(1436)年正月2日に生まれました。
ところがこの年の立春は誕生後の正月11日、翌年の立春は年内の12月22日でした。その結果、義政は誕生時に1歳、10日後に2歳、その年の12月末には早くも3歳になり、「三歳若君」「一年三歳」と呼ばれました。幼名を「三春」というのもこの誕生日によるものでしょうか。永享8年は辰年だけれども、前年卯年生の扱いとされたともいいます。
つまり家康は通説通り天文11年12月26日生まれ、だけど寅年でもあり卯年でもあった……のかもしれません。ことしは奇しくも癸卯年、家康は何度目かの年男になります。うさぎの活躍を見ていきましょう。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。