いよいよ「どうする家康」が始まりました。「松平次郎三郎元信」の登場です。
ところで「次郎三郎元信」って誰? 家康は?とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。当時の人は生涯で何度か名前が変わりました。
幼い時は「竹千代」「吉法師(織田信長)」「芳菊丸(今川義元)」などの幼名を名乗りました。
成長して10代半ばごろになりますと元服(成人)し、大人の名前(諱)を名乗ります。家康は数え年14歳でした。諱には、おおよそは「家康」「信長」のように漢字二文字が使用されます。諱も、生涯で何度か変わることもあります。さらにある程度の年齢になると出家して、「信玄」のような法名を名乗る人もいます。
家康は元服当初、「松平次郎三郎元信」と名乗りました。第1回の放送で、今川義元が、家康に「わが子も同様」と語っていました。諱「元信」の「元」は義元の「元」を授けられたものです。
元信のように大人の名に改める時に、主君や親代わりの人から名前の一字をもらうことがありました。一字偏諱といいまして、名誉なことです。現代で言いましたら、芸事で名取となる時、師匠の一字をいただくような感じでしょうか。
頂戴した一字は、ありがたいものですので名前の上の字に用います。ですので、この時期の今川家の家臣たちには、元綱・元景・元連などなど「元」から始まる名前の人が何人もいました。
つまり「元」を授けられたことにより、「元信」は今川家の家臣の有力な一員として位置づけられることとなったわけです(このコラムでは「家康」で統一します)。さらに今川一門関口氏純の娘(ドラマでは「瀬名」)と結婚し、一門に准じる立場になりました。
下の字「信」の字は、信光・信忠など家康の先祖とされる人々が用いた字でした。おそらく先祖にあやかったのでしょう。
つまり「元信」は、今川とのつながり、松平とのつながりを示す名前になります。
ちなみに義元の「義」の字は、室町幕府12代将軍足利義晴から与えられたものです。義元は当初僧侶となっていました。しかし天文5(1536)年、当主だった兄・氏輝が急死します。そして、義元と異母兄の間で家督をめぐる争いが勃発しました。
義元は還俗し、家督を相続したと将軍に申請して、「義」を拝領し「義元」と名乗りました。この一字を得たことによって、自分は将軍から今川家当主と公認されたのだぞ、と家中に正当性を主張するよすがとなったことでしょう。
さて元服した家康には、もう一つ「次郎三郎」というミドルネームがあります。これは「仮名」と言いまして、通称になります。当時の人々は、ふだんは諱はあまり使用せず、仮名で呼ばれました。
最近、歌舞伎役者の市川團十郎さんの以前の名前、新之助を息子さんが引き継いだように、親子で同じ仮名を名乗り、また仮名を変えることがよくありました。「次郎三郎」は家康の父・祖父も用いた仮名です。
その後家康は、弘治4(1558)年ごろに諱を「元康」、さらに仮名を「蔵人佐」と改めました。蔵人は、本来は朝廷で天皇の秘書のような役割を果たす人、「佐」は兵衛府の武官の官職です。
もちろん家康が京都で、蔵人や兵衛佐としての役割を果たすわけではありません。正式に任じられた官職ではなく、私的に名乗った仮名になります。これも先祖にあやかった名乗りで、松平家を継承する意識が窺われます。
元康からさらに「家康」に改めるのは、もう少し後のお話になります。
日本史関係の本を読んでいると、似たような名前の人が多くて……と思うことはないでしょうか。実は私はよく混乱してしまいます。しかしその一方で、名前はその人の立場や世代が推測できるありがたい手がかりでもあるのです。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。