源頼朝の人生が暗転したのは13歳の冬でした。平治元(1159)年、平治の乱に加わった父・義朝は敗軍の将となり、東国に逃亡します。頼朝も同道しましたが、
雪道の途中ではぐれ、捕らわれの身となります。父は尾張国まで逃げ延びましたが、そこで信頼していた家人に裏切られ、惨殺されます。
父も兄も失い、一人京に連行された頼朝は、首謀者の息子として処刑されてもお
かしくなかったのですが、さまざまな働きかけがあって、命だけは助かりました。そのかわり、翌年伊豆に流されました。
刑罰の中で最も重いのは死刑ですが、平安時代には、死刑は行われなくなっていました。それが、3年前の保元の乱の後に復活しました。これは衝撃的な大転換でした。都の人々は、時代の変化を目の当たりにしたことでしょう。
流罪は死刑に次ぐ重い刑罰です。流罪は、京からの距離、土地の不便さなどによって、遠流・中流・近流と3段階に分けられます。いちばん遠い所に流される遠流が最も重い刑です。
頼朝の流された伊豆は、その遠流の地でした。弟の希義が流された土佐国も、遠流の地です。遠流の地は他に、安房・常陸・佐渡・隠岐があります。
頼朝に下された伊豆流罪は大変重い刑罰であったわけですが、それでも、ほかの国に比べれば、都との距離はいちばん近かったのです。弟よりも優遇されたところを見ると、頼朝の助命運動の圧力のほどが想像されます。
流罪の地で流人はどのような暮らしをするのか。その大きな決め手は、その地を治める人との関係性です。少しでも所縁のある人物がその土地の支配に関わっていれば、さまざまな便宜をはかってくれる可能性があります。
日々の暮らしをこなしていくのに精いっぱいの中で、物資を融通してもらえるかもしれません。縁故ある人との連絡を円滑に行うことができるようになれば、京や近隣の知り合いからも、手紙や生活物資が送られてきます。
反対に、全く縁のない人物、それどころか、敵対する立場の人が治める地に流されたら、それは、「どうとでもなれ」という合図でもあったわけです。
頼朝が流された当時の伊豆国は、頼朝とどんな関係のある人物が治めていたのでしょうか。最初のころは、平義範という人物です。平氏とは言っても、清盛とは縁がない家柄です。
その後、仁安2(1167)年ころには源頼政、仲綱父子が伊豆国を治めるようになります。源氏にもさまざまな系統があります。頼政父子が頼朝と深い関わりがあったわけでもありません。しかし、清盛から厳しい抑圧を受けることもなかったと思われます。
尤も、清盛にとって、頼朝は要警戒人物ではなかったのでしょう。頼朝は野放しにされ、中央からはほぼ忘れられた存在となったと言ってもよいのかもしれません。
そのおかげで、頼朝の命と流人生活は何とかつながりました。でも、決して安泰ではありません。監視は続けられていたでしょう。頼朝のサバイバルドラマはどのように繰り広げられることでしょう。
(NHKウイークリーステラ 2022年1月21日号より)
静岡県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻満期退学。博士(人文科学)。現在、駒澤大学文学部教授。『平家物語』などの軍記物語を中心とした中世日本文学の研究を専門としている。著書に『『平家物語』本文考』、『平家物語の形成と受容』、『90分でわかる平家物語』、『平家物語大事典』(共編)、他にCD集「聞いて味わう『平家
物語』の世界」などがある。NHKでは、ラジオ〈古典講読〉「平家物語、その魅力的な人物に迫る」に出演。